.浄土真宗と日本資本主義の精神
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飯塚修三
2015.09.04 執筆は2007年.
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マックス・ヴェーバーは「プロスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで資本主義の精神はプロテスタントの宗教的禁欲を基盤とすることを強調した。カトリックは手を汚さないで、祈祷することに価値を認めるが、プロテスタントは労働を神聖なる宗教的行動が神の恩恵の兆しと考えたのである。日本において主義はいつ如何にして醸成されたのであろうか。

 山本七平は「日本資本主義の精神」の中で鈴木正三(しょうさん)と石田梅岩を取り上げている。しかし、宗教的基盤を無視している。山本がキリスト教者である限界であろうか。
日本の近代資本主義は江戸時代天下の台所である大坂において萌芽のめをみた。それは宗教的共同意識を抜きにしては考えられない。そしてその宗教とは浄土真宗である。かくいう私の家も浄土真宗本願寺派(西本願寺)である。私自身はというとあまり宗教意識はない。これは平均的な日本人の宗教意識であろう。
 浄土真宗は何と気楽な宗教であろう。母親の曰く「仏、ほっとけ」、「一向かまわぬ(一向宗)」と口癖であった。祖母は毎日お経を読んでいたが、家族でお経を読むのは八月のお盆のみ。お経の後で食べるスイカが楽しみであった。
 お坊さんは「仏ほっとけ」とは言わないであろうが、なにせ「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の教義である。「善人さえも往生することができる。ましてお釈迦様が心を痛めて心配されている悪人が救済されるのは当然ではないか。」という教えである。

 ヨーロッパでは1517年、マルチィン・ルターがヴィッテンベルグ城の教会の扉に「95ヶ条の論題」を張り出したのが始まりとされる。日本ではいったい何時(いつ)、宗教改革が行われたのであろうか。ここでいう宗教改革とは聖職者が世俗人と同じ地位に立つことを言う。
私はキリスト教徒でないので神父と牧師の違いが分からなかった。カトリックの聖職者が神父、プロテスタントの聖職者が牧師と名乗っているぐらいにしか思っていなかった。根本的な違いとは神父は妻帯を認められず、牧師は妻帯して良いということを知って驚いた。

 仏教の世界でも同様であった。僧侶が最初に公然と妻帯し子をもうけたのは浄土真宗の祖・親鸞(1174〜1262)である。師の法然は「妻を娶らなければ念仏に専心できないようなものは、娶って念仏したらよい」と僧侶が妻帯することを認めていた。しかし、法然自らは結婚しなかった。親鸞が結婚に踏み切ったということは、現実に結婚生活を営んでいる一般大衆に大きな勇気を与えたものと思われる。このように聖職者の妻帯という宗教改革は日本のほうがヨーロッパよりも300年も早いのである。

 大坂の町を作ったのは太閤秀吉と思われているが、浄土真宗八代・蓮如(れんにょ)である。1496年、82歳の蓮如は堺や各地の商人とともに石山本願寺を建て、寺内(じない)町を作った。寺内町というのは城下町でも門前町ではなく、寺を中心とした防護要塞都市である。これがため織田信長といえども10年かかっても攻め落とせなかった。この10年の戦いで信者の同朋意識、共同体意識は益々高まったことであろう。
 蓮如は「仏の上では、貴賎の差はなく平等である」と信者と同じところに座して(平座)信者と語った。すなわち、仏の前では、どんな人でも、同胞、仲間、友達という平座の思想を説いた。従来の仏教では僧は一段の高みより信者を導いていた。これこそヨーロッパの神父ではなく、牧師の誕生である。
 蓮如の経済思想はどのようなものであたであろうか。1471年の御文(おふみ)には次のようにかかれている。「ただ商いをなし、奉公をなし、猟すなどりもせよ、かかる浅ましき罪業にのみ朝夕惑ひぬる我らが如きの悪戯者(いたずらもの)を、助けんと誓いまします弥陀如来の本願にてまします」
現代語訳すると次のようになる。
「商人、奉公人、猟師これらの人は『浅ましき罪業』のひとだ。商は他人の財布を盗む泥棒にも等しい行為である。このような人をも阿弥陀仏はお救いくださるのだ」
 この御文は罪の意識を説く点において、キリスト教の原罪の贖罪思想に似ている。親鸞の悪人正機説を蓮如なりに解釈しいた。恵まれている階級よりも恵まれない階級の方にこそ仏様の愛情を注がれるのである。それはあたかも安定して暮らしている子と家出した子がいたとする。親は家出した子の方を気にかけるようなものである。
 支配者階級の方では商人を見て、あのような浅ましい仕事をしていると軽蔑している。しかし、決して卑下する必要はない。阿弥陀仏からすれば立派な仕事をしているのだよと商人をはげました。
商売をする上で何よりも大切なのは信用である。同じ宗教であることは同胞意識を与え、信用を増すことになる。戦国時代後期、九州では多くのキリシタン大名がでた。キリスト教棄教令が出てすぐ改宗した者はこの類であろう。

 江戸時代の大坂古地図をみると船場の人たちはほぼ100パーセント浄土真宗であった。大坂においては9割の地域を商人が占めていて、まさに商人の町であった。小西来山は「お奉行の 名さえおぼえず とし暮れぬ」と俳句に詠んだ。

 大坂に近代資本主義の成立のエポックメイキングなことは米相場の確立である。今で言う株式相場である。米相場は天候はもちろんのこと、そのときどきの政情とか、災害とか、思惑とか様々な要因が加味されて決定される。
 大坂堂島で米相場が立ったのが1688年(元禄元)、徳川綱吉の時である。武士階級は得体の知れない物が出てきて、いぶかしがったに違いない。1696年、米商仲買人・網干屋喜左衛門を闕所(けっしょ)(財産没収の後、追放)、1705年、米商人・淀屋辰五郎を闕所にして、米相場を引き上げるものとして始めは弾圧した。しかし、享保にはいり米相場が下落がはじまると、1730年(享保十五)、幕府は米相場を公認した。これは封建領主の所有する米という商品と、大坂商人のもつ貨幣との交換割合が決定さえるという革命的な意味をもつ。なぜ大坂において米市場が成立し得たかという疑問である。その答の一つは大坂は浄土真宗の本山であり、各地の末寺との信仰を通じての同行組織が、同時に経済的な意味の同業組織として働いたことが考えられる。

参考文献
1.マックス・ヴェーバー「プロスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波書店、1989年
2.石川謙「石田梅岩と都鄙問答」岩波書店、1968年
3.後藤文利「真宗と資本主義」所書店、1973年
4.後藤文利「真宗と日本資本主義」同信社、1981年
5.花山勝友「浄土真宗」大法輪閣 1983年
6.木村武夫「蓮如上人論」PHP研究所 1983年
7.藤獄彰英「大阪再発見―なにわの蓮如さん」大阪教務所、1999年
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